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[天神朝キャンパス] もっと天神を好きになる!~新天町のたのしみ方~

開催日:2012年11月21日

天神朝キャンパス

【特別授業】 天神朝キャンパス

この授業は、天神を安心・安全・快適な街にしようと活動する「We Love 天神協議会」と一緒に進める特別授業です。天神の新たな朝の魅力を発掘するために始まりました。開催日は、毎月第3水曜日。出勤途中の方も、お休みの方も、天神の朝を楽しみませんか?

We Love 天神協議会 : http://welovetenjin.com/

 

 

落ち葉が舞い、だんだんベッドを離れるのが辛い季節になってきました。

そんな11月の朝キャンパスの舞台は、新天町商店街です。

 

 

この朝キャンパスは「We love 天神協議会」と一緒に、

天神で朝の有意義な学びの時間を過ごそうということで開催しています。

 

 

さて、今回の先生はミスター新天町こと柴田嘉和さんです。

新天町の誕生と同じ年のお生まれで、名実ともに新天町と歩んで来られた柴田さん。

まずは、新天町ぶらり散歩から授業スタートです。

岩永学長から「新天町にはどんな業種のお店があるのか、どんな特徴があるのかを

見つけながら歩きましょう」という挨拶の後、柴田さんの後について

“あの場所”に向かいます。

 

 

新天町の顔

 

 

 

 

新天町のイメージといえば、やはりこの時計塔でしょう。

TVCMでもおなじみのこの時計塔は、1981年に当時の理事長の発案で設置されました。

アーケードの鉄筋化や冷暖房整備のために大きな改装を行った時に

新天町35周年のシンボルとして設けられました。

当時は壁だった場所に理事長が「ドイツ旅行で見たからくり時計をつくろう!」と

提案したところ、誰もが下を向いてうつむいたそうです。

みんなが無理だろうと思った時計塔計画でしたが、TNCの資金協力を得て

実現することになりました。

その頃福岡進出を果たしたTNCが「何か福岡の街とのつながりを作りたい」

と考え、資金を援助してくれたのです。

逆風の中でもあきらめなかった理事長のおかげで、今や新天町の顔として

皆さまに喜ばれる場になりました。

 

 

そうそう、時計の下にいるピエロにはちゃんと名前がついているんですよ。

ユーモラスな彼の名前は「どんた君」(笑)

新天町といえばどんたくということで公募で決まりました。実は2代目です。

初代はあまりにリアルなピエロだったためにお客様から「子どもが泣き出して困る」

という投書が来て引退し、今のどんた君になりました。

からくり時計の音楽は12曲あり、今のシーズンはクリスマス仕様になっています。

12時には雪が舞うので、お休みの日には是非見に来てください。

 

 

 

 

次は、新天町プラザの3階に場所を移します。

ここは新天町社員食堂になっていて、朝から仕込みの音が聞こえてきます。

 

 

新天町を歩きながら感じたことを学生さんに聞いてみます。

時間の都合上、一人だけ発表してくれたのは朝一番に来てくれた男性の学生さんです。

その内容はというと・・・

 

 

「お店が他業種だなぁ、という印象を持ちました。幅広い年齢層に合う感じ。

 例えば、飲食店なら若い人、時計塔なら子どもたち、衣料品や呉服なら年配の人とか。

 どの年代でも利用できる商業体だと思いました。」

 

 

では、そんな新天町はどうやって生まれたのでしょうか。

 

 

新天町誕生前夜

 

 

 

 

ここからは柴田さんに新天町の歴史をうかがうことに。

岡本太郎画伯の絵をバックに、柴田さんと岩永学長の対談形式で話を聞いていきます。

そこで用意されていたのは、A3版の新天町・福博年表でした。

1935年から2012年までの新天町の出来事、天神の動き、福博の出来事を

なんと柴田さんご自身が写真を交えてまとめられたものです。

 

 

◇まずは新天町がどうしてこういう街になったのかを教えてください。

 

新天町が生まれたキッカケは、戦争で焼け野原になったことです。

「空襲で何もかもが焼け落ちた街を復興するには、まちおこしから!」という思いから

新天町の歴史は始まりました。

そういう意味では、表現としてはちょっと問題があるかもしれませんが

戦争がなければ新天町はできていなかったと思います。

終戦直後の福岡は、2012年の東日本大震災の被災地と全く同じ風景でした。

まちをどう興していくか一生懸命考え力を合わせるところに希望を感じます。

 

 

1945年にまず新天町の青写真を描いたのは、西日本新聞社戦後復興体側本部の

田中諭吉でした。

田中諭吉という人はユーモア溢れる大変なアイディアマンで、

櫛田神社に節分のお多福門をつけたり、大宰府の曲水の宴を始めたりしました。

その田中諭吉が懇意にしていた原田平五郎(おたふくわた社長)に協力を求め、

原田平五郎が協力をお願いしたのが船木卯一郎でした。

船木家は元々黒田藩と一緒に岡山から福岡にやってきた商人の子孫で、

卯一郎は洋服店のフカヤや靴のサンフカヤの社長でした。

 

 

◇年表に“米軍のブルドーザーで整地” とありますね。

 

福岡市が所有していた土地と県立女学校の跡地をようやく借り、整地しようとするのですが

お金は全く無くて、何をするにもGHQが目を光らせてるんですね。

そこで田中諭吉は、新天町の計画がアメリカに反旗を翻すものではなく

日本にとってどれだけよいことなのかをアピールしました。

新天町の設立趣意書にも米軍を褒める内容を盛り込むことで、

米軍のブルドーザーを使って整地ができました。

この時、岩田屋社長の中牟田蔵元も手を貸してくれたといいます。

田中諭吉はどうやったら相手が動いてくれるかを熟知していて

ある面とてもしたたかだったわけです。

 

 

人と人とのつながりの中で

 

 

 

 

◇大変な苦労の中で新天町商店街は誕生したんですね。

 

そうですね。一番最初に新天町が始まった時は木造平屋建てでした。

建坪は18坪、前が店舗で後ろが住居なんですがお風呂もなくて。

ちょうど今いる新天町プラザの場所が共同浴場でね、それは賑わっていました。

なにしろ子どもも多くて、大名小学校は当時19クラスもありました。

教室に生徒が入りきらんから午前と午後の二部制授業だったんですよ。

 

 

◇今や大名小は児童が十数人まで減り、舞鶴小、簀子小と統廃合されますよね。

 

寂しいですね。あの頃は学校から帰ると友達と空地で遊んで

そのままみんなで風呂に入りよりましたから。

親は親で家と同じ場所で商売して、店が終わったら風呂に行くという生活でした。

新天町に店を構えた人達の多くは博多から空襲で焼け出された人が中心で、

そんな生活やったからものすごく団結心が強かったですねぇ。

どんたく山笠はもちろん、誓文払いを復活させたりね。

 

 

◇1954年には火災にあってますね。

 

お店の片隅にこそ~っとお風呂をつけた店があったんです。

そこから出火したのが燃え広がってしまって。

翌年にも火災があって、木造からコンクリート化を進めました。

不燃化対策が終わった頃の新天町が今のベースになっています。

 

 

◇1971年の“ダイエー対抗86大作戦”というのは何ですか。

 

ダイエーが天神北部に出店を決めた後、ある噂が新天町商店街に広がりました。

「ダイエーが開いた説明会の席で、社長が新天町にはペンペン草の生えるごとしちゃるて

言いござった」という話でね。新天町商店街にしてみればコンチクショーですよ(笑)。

新天町86店舗が一致団結して黒船ダイエーを迎え撃つ大バーゲンが86大作戦でした。

ずいぶん後になってわかったんですが、中内社長はそういう発言はされなかったそうです。

まぁ大作戦はかつてない売り上げを叩き出し、みんなで大打ち上げができましたから

振り返ってみればいい思い出です。

 

 

◇そして1981年時点で既に35周年!記念イベントは岡本太郎さんのトークショーですね。

 当時柴田さんは宣伝部にいらっしゃったとか。

 

はい、秋に記念イベントを開催しました。

秋といえば芸術の秋、芸術といえば爆発ということで岡本太郎さんをお招きしました。

予定ではトークとライブペインティングを行う予定だったんですが、

たまたまこの時に風邪をひいてらっしゃってトークだけになったんです。

後日、岡本太郎さんが描いたものを送ってくださったんですけど、

模造紙をクルクルと丸めた物だったんで、よく見もしないまま倉庫に入れたままでした。

たまたま倉庫整理の際に見つけて、額に入れて飾りました。

倉庫に眠ったままにならずによかったです(笑)

力強くて見飽きることのない、立派な作品だと思います。

 

 

◇その後もILOVE FUKUOKAキャンペーンや社員食堂のオープンなど、いろいろ仕掛けられて

 いますよね?

 

新天町商店街は人とのつながりから生まれて続いているということもあって、

私の中で「新天町をみんなが来たがるまち、誰もがホッと安心できるまち、いろんな人が出会うまちにしたい」という思いが強かったから、ですね。

さっきの学生さんが話してくれた中に幅広い年代層に合うっていうのがありましたが、

いろんな人が行き交う“天神の交差点”みたいな存在でありたいと思います。

いわゆるマーケティングでいえば、ターゲットがどうとかエリアがどうとかって話ですが

私はマーケティング語は使わんとです。

宣伝部時代にマーケティングの勉強はしたとですけど、やっぱりお客様はお客様なんですよ。

ただお金を払うだけのヒトではなくて人と人とのつながりを感じるっていうかね。

お金だけじゃないものがあると思います。

社員食堂も同じで、私は天神に学食を作りたいと言ったんです。

ずいぶんと反対されて紆余曲折があって、社員食堂という形になりました。

時計塔の理事長と同じであきらめなかったのがよかった(笑)

そういうわけで一般のお客様にも利用できるようになっています。

 

 

◇あっという間に時間になってしまいましたが、最後に一言メッセージをお願いします。

 

やりたいと思ったことは仲間を作ってやろう、ということですね。

難しいと思ったことでも自分たちで始めて声を掛ければ動き出すんです。

あきらめずに一生懸命やっていれば、人と人のつながりの中できっと実現するってことを

伝えたいです。今日は朝早くからどうもありがとうございました。

 

 

もっとお話を聞きたかったのですが、ここで授業終了。

柴田さんの案内で新天町の今と昔を巡る1時間になりました。

 

 

教室を出るとそこは私にとっていつもとは違う新天町がありました。

熱い気持ちで新天町をつくった人の後ろ姿を見かけたような、

歓声を上げながら走り回る子どもの息遣いを感じたような気持ちになりました。

柴田さん、ご参加頂いた学生の皆さん、どうもありがとうございました。

 

 

おまけ

 

 

 

 

授業終了後に柴田さんと話し込む学生さんの姿がありました。

聞いてみるとなんと田中諭吉さんのお孫さんでした!

授業案内には田中諭吉さんのことは一言も触れていなかったのに

たまたま応募されてたまたま当選した女性がお孫さんとは・・・。

なんとも不思議なご縁です。こんなことってあるのですね。

そしてたまたま見つけたおじいさまの日記帳を持ってこられていて、

歴史は今この瞬間も人と人の間でつくられていることを感じました。

 

 

(ボランティアスタッフ 日名子美千代)

 

 


 

 

【今回の先生】

柴田 嘉和 (株式会社しばた洋傘店 代表取締役/株式会社新天町商店街公社 取締役)

 

 


 

 

【今回の教室】

新天町プラザ3F

住所 : 福岡市中央区天神2-9