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レポート日記

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昔の大名ってどんなやったと? ~6.19 福岡大空襲のお話を聞く~

開催日:2011年06月25日

通常授業

【今回の先生】 鍋山 徳子 (福岡大空襲語り部)

 

【今回の教室】 大名公民館・3F和室

 

 

今回の授業は、田舎のおじいちゃん・おばあちゃんの家で、みんなで車座になりお話を聞くようなアットホームな雰囲気づくりを心がけながら、みなさんをお迎えしました。

 

 

鍋山徳子先生は福岡大空襲を大名小学校2年生の時に体験され、焼夷弾が降り注ぎ、焦土と化した当時の福岡の様子と戦後の生活について、時には小学生に優しく話すように、時には涙を流しながら、時には親が子を諭すように、防空頭巾やたくさんの写真等の資料を準備されて次のように語っていただきました。

 

 

 

 

炎に包まれた街

福岡大空襲は、昭和20年6月19日から翌日20日までアメリカ軍のB29が福岡市の市街地を標的にして焼夷弾を投下した空襲で、1000人以上が死亡・行方不明になりました。

 

 

大空襲当日は梅雨明けの晴天で星空がきれいな夜で、「今日は警戒警報が鳴らんといいなあ」と願っていました。というのは警戒警報が鳴ったら夜中に起こされるからでした。しかし、22時35分に警戒警報が鳴り、福岡市南部の背振山方面から進入してきたB29爆撃機編隊221機が福岡市の市街地を標的にして、破壊ではなく、全滅・消滅を目的にして一夜のうちに1235トンもの焼夷弾が落とされたのです。

 

 

博多や天神を中心に爆撃が行われ、市内でも、とりわけ奈良屋、簀子、大名などの校区は被害が激しく、特に奈良屋校区1814戸のうち、たった4軒を残して全て焼失するなど、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原となってしまいました。

 

 

現在の赤坂門にある読売福岡ビルが捕虜収容所でしたが、私たち家族はその建物の防空壕から間一髪、避難場所であった福岡高等裁判所の森に、町内で一番最後に逃げ出し、町内の人たちみんなから「あんたたちはよう生きとったとね!」と拍手で迎えられました。森から福岡市内を見渡すと、燃える炎で真昼のように明るかったことを鮮明に覚えています。(当時、福岡高等裁判所の森は兵が居住していた場所で「営所」と呼んでいました。)

 

 

また、早良、糸島、筑紫郡といった地区にも爆撃され、現在の博多座にあった十五銀行の地下防空壕では停電により避難民が閉じ込められ63人が亡くなるという惨事も起きました。

 

 

 

 

つらい記憶

翌日20日に母の実家があった姪浜にリヤカーで移動することになり、その途中、大濠公園入口にある福岡簡易保険局の横で人間の木炭化した8体の遺体を見ました。そのなかには、子どもをかばったままの姿で亡くなった親子の遺体があり、いまでもこの話をすると、とてもつらくてたまりません。

 

 

また、私が小学校から帰るといつもお菓子を用意したりして、我が子のようにかわいがってくれた岩下のおばちゃんが町内でただ一人だけ防空壕の中で焼死されました。その岩下のおばちゃんを見て「おばちゃん、どうして?どうして?」と言ってワーワー泣きました。

 

 

後世へ伝えたい気持ち

このようなことを思い出すたびに絶対に戦争はすべきじゃないし、二度とああいう目に会ってほしくない。私が見たものは66年も前のことだけど6月19日がやってくると思い出さずにはいられません。こういう戦争のむごさ、悲惨さを語ることが私たち残された者の定めだと思っています。

 

 

 

 

戦後、鍋山先生は牛小屋を改良したような板張りの6畳に家族5人で暮らされたそうです。また、赤ちゃんがいる家庭には砂糖やミルクが配給されていたので、当時43才だったお母さんに「赤ちゃん産んで、赤ちゃん産んで!」と言って困らせたそうです。さらには、8月15日の話、近所で助け合っていたこと、教師生活40年の体験談、今年の3月11日の東日本大震災の話など、数多くのことを語っていただきました。

 

 

生徒のみなさんは、先生をみつめて真剣にお話を聞いていらっしゃいました。焼け野原となった天神地区の写真を見たときは、現在との違いに驚き、また、先生のお話を聞いて、時折涙する方もいらっしゃいました。

 

 

 

 

休憩の合間には、BGMに戦後初のヒット曲となった並木路子さんの「リンゴの唄」を流しました。「リンゴの唄」は、終戦後、暗くなった日本人の、心の支えになった曲といわれています。シャンソンがご趣味という鍋山先生。♪あ~かいリンゴに♪と曲が流れ始めると、美しい歌声で、みなさんをリ-ド!自然と全員手拍子しながら「リンゴの唄」を熱唱しました。

 

 

 

 

最後に、授業コーディネーターが、今回の授業を企画した理由について一言述べました。

「私事ですが、辛いことがあったとき、おじいさんおばあさんが戦中・戦後苦労したというエピソ-ドを思い出し、自分も頑張ろう!と思いました。また、3月11日の東日本大震災に、とてもショックを受けました。自然災害と戦争は、違いますが、多くの方が無念の思いで亡くなられたこと、また生き残った方々も、辛い思いを抱えて懸命に生きておられることは、重なるように思えました。この街で、たくさんの命が失われたことを伝なくては、と思い企画いたしました。」

 

 

片付けが終わり大名公民館を後にする時の予期せぬドシャブリの雨は、福岡大空襲で亡くなられた方々の大粒の涙だと感じたのはきっと私だけではないだろうと思いながら帰路につきました。みなさま、お疲れ様でした。またどこかでお会いしましょう!

 

 

 

 

(ボランティアスタッフ 田中 雄二)