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悠久の歴史都市「太宰府」を知ろう! ~歴史と自然に触れる旅~

開催日:2011年10月30日

通常授業

福岡で歴史と言えば・・・

必ず出てくる「太宰府天満宮」。しかし、太宰府は天満宮ができるよりはるか昔、日本第2の都市として栄え、政治機能も有していた大陸と最も近かった都市でした。ほとんどが埋もれてしまって形の残っていないものの、今もなお息づく歴史もそこには存在していました。

 

 

 

 

事前に「雨天中止」と言っていたのですが、

「来れそうな方は少雨決行したいと思うので来てください」と当日朝にメールして・・・。

 

 

 

 

やっぱり雨。しかも太宰府市民の森は下が土。

前日夜からの雨でぬかるみ具合は最高で、長靴必須の会場になっておりました。

 

 

今回の授業は、環境フェスタin太宰府「まほろばのもり」との連携企画で、このフェスタも今年で3年目とあり、関係者や出店者も気合十分。太宰府市民への浸透も進み、雨にも関わらず会場には常に人が行き交うほど賑わっていました。音楽のライブあり、飲食のブースあり、自然やエコの体験ブースあり、という森を精一杯活かした手作り感のあるフェスです。

 

 

 

 

そのフェスの中でも子どもにも大人にも人気なのがコレ!今回の授業参加者も体験した「竹パン」です。小麦粉で練ったパンの生地を竹に包んで焼いて食べます。あたりはパンが焼けたおいしそうなニオイが漂っていました。

 

 

さて、事前に「雨天中止」と言っていただけあって、人は来てくれるのだろうか・・・

と思っていたら、ひとり、またひとり、と集まってきました。受付場所が時間になるまで設置していなかったので、わからずに森を出られて参加できなかった方もいましたが、合計5名の方がいらっしゃいました。少雨でしたので、皆さんに意思を確認し、ショートコースで回ることにしました。

 

 

 

 

まずこの歴史のまちあるきですが、今回の先生役を自ら務めたものの、「歴史の専門家」ではありません。そして細かいところを突っ込まれると答えられません。詳しい参加者がいたらどうしよう、という心配と、知識の専門家ではなく、伝える(プレゼンテーション)の専門家としてこのまちあるきを実施することが、普段歴史に興味の持てなかった人にも知ってもらうキッカケになると思っています。

 

 

ということで森を出て出発しましたが、せっかく「太宰府の歴史」に興味を持って雨の中かけつけてくれた参加者。道中は2人1組で自己紹介や、なぜ参加したか、などを話しながら仲良くなりつつ、ツアーのスタートです。

 

 

■スポット1「観世音寺」

最初に訪れたのは観世音寺というお寺。聖徳太子くらいの時代に教科書に出てきた「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」、後の天智天皇が母親の追善のために建てたとされる寺です。そうです、天皇がこの地で政務を司り、お寺を建てているのですから、当時は「大宰府政庁」があり、多くの役人が住んでいた地でもあるのです。

 

 

そしてこの観世音寺の瓦は「老司 I式」。福岡市南区にある老司で作られた瓦です。

 

 

さて、その観世音寺の境内には五重塔跡や南大門跡などがあり、境内規模は当時では西日本最大規模を誇り、もし、残っていたら法隆寺と同じく世界遺産級です。歴史にifはありませんが・・・。

 

 

■スポット2「梵鐘」

観世音寺境内の中を歩くと、石垣の台の上に金網に囲まれた「鐘」があります。この鐘は京都妙心寺にある日本最古の鐘(698年製造)と、ほぼ同じ型で作られた鐘で詳細部分まで一緒なので兄弟鐘と言われていますが、年数の記録が刻印されていないので製造年がわかりません。しかし、京都妙心寺の鐘も、この鐘も福岡市東区を流れる多々良川のほとり、「多々良」で作られたとされており、こちらの鐘の方が古いとも言われており、もちろん国宝です。

 

 

 

 

昔は金網などなく、近所の子どもが普通に突いていたと地元の人は言っていたりしますが、今では年に一度だけ突くことができます。そう、除夜の鐘です。大晦日の22時くらいには人が並びはじめ、整理券が配られて毎年人数限定で突くことができる国宝の鐘なんですよ。

(ちなみに僕は突いたことがあります)

 

 

■スポット3「戒壇院」

次のスポットは観世音寺の隣にある「戒壇院(かいだんいん)」。ここは教科書にも出てくる鑑真が来て、日本で最初に「授戒(じゅかい)」を行った場所で、後に戒壇院として建てられたところ。仏教が渡ってきた日本でも、僧侶になることができなかったことから、仏教を広めるため、僧侶になるための「戒律」を授けてくれる人を求めて、中国の唐にいた鑑真にお願いに行った日本人がいたのです。

 

 

心打たれた鑑真は、弟子に「誰か日本へ行くやつはおらんか」と言っても誰も手を挙げず、自ら行くことを決めた鑑真ですが何度も弟子や役人や自然に邪魔され、ようやく失明しながらも6度目の航海、実に10年かけて日本にやってきました。そしてこの太宰府に入って、初めて「授戒」を行ったのです。

 

 

 

 

戒壇院の中にある石座は当時、鑑真が授戒を行ったままのもの、だそう。さらに石段の下には三国(天竺・唐・大和)の土が眠っているそうですが、考古学者が石を剥がして調べたい!と言っても、この戒壇院の住職が全て断り、いまだにどのように眠っているか誰も知りません。そして戒壇院の正面の右側より奥を覗くと・・・鑑真像があります。教科書に出てくるものではありませんが、江戸時代初期に作られたものと言われています。

 

 

■スポット4「戒壇院の梵鐘」

先ほどの観世音寺の国宝・梵鐘より、全然有名ではありませんが、こちらの方がよっぽど身近に感じると思います。

 

 

 

 

この鐘を作ったのは「礒野七兵衛」と書かれていますが、「礒」の字を見てください。石の横が「義」です。磯は「幾」で、これは海を表すもの。礒は丘を表すもので、磯野家は戦国時代好きなら知ってる琵琶湖にいた礒野家が有名ですが、信長に敗れ、落ち延びて九州に来るも、秀吉に敗れ、2度も失業を経験。武士を辞めて鋳物師に転身したそうな。そして江戸時代になり島原の乱で、福岡藩の命令で大砲の弾を作らされた功労として、農機具などの販売権を得て商売が軌道に乗ったそうです。販路は日本国内だけでなく、東アジア圏にまで及んだそうで、国内の民族博物館に飾ってある農機具の多くは「礒野式」と書いてあります。

 

 

その礒野家は博多を代表する商人となり、鋳物師になって代々「礒野七兵衛(七平)」を名乗り、2代目福岡市長を輩出するほどの家でもありました。ご先祖様は武士、磯野○平と言えば・・・。アニメ「サザエさん」、と直接の関係は誰も知りませんが、サザエさんの原作は福岡が舞台、原作者も福岡に住んでいたことから夢が膨らみますね。

 

 

さてこの鐘はとある人の遺言と資金によって戒壇院に寄贈されたのですが、それが2011年3月にテンジン大学授業で先生となった醤油ソムリエの大浜さんがいる「福萬醤油」の祖、楠屋白木玄流さんによるもの。白木玄流は「楠屋」とついていますが、当時薬院にあった楠屋の支援を得て、酒造により商売に成功した人です。そしてこの「楠屋」こそ、今も大名で「醤油」を売っている上久醤油の祖なのです。歴史って、実はいろんな点と点がいまでもなお繋がっているのです。

 

 

 

ショートコースと言いながら、内容たっぷりで送っているこのまちあるきですが、参加者の皆さんは目をキラキラとさせながら聞いていました。そして道中に集合写真。

 

 

 

 

■スポット5行けずの「西正寺」

ショートコースなので行けなかった「西正寺」の話を、スポット6の前でしました。西正寺は元武士の藤内重勝という人が建てた寺。なぜ元かと言うと、環境フェスの会場がある森は岩屋山の麓。戦国時代にここは「岩屋城」と呼ばれ、高橋紹運(たかはしじょううん)がいました。

 

 

薩摩(鹿児島)からやってきた島津軍約2万人に攻められ、763人が立て籠もり全員が玉砕した山でもありますが、攻められる前に高橋紹運が「みんな玉砕するから、仲間たちのためにこの城を出て弔って欲しい」として、単身城を出て、戦争後にお寺を建てたのが西正寺です。

 

 

この高橋紹運は、戦にめっぽう強く、息子は初代・柳川藩の藩主「立花宗茂」です。この息子が福岡市の東にある立花山にいたため、時間稼ぎのため、自ら犠牲になるために岩屋城で徹底抗戦したのです。地域住民にも愛されていたのでしょう、島津軍はお城の「水の手」を探し出すために聞いてまわりますが、誰一人として口を割らなかったと言います。

 

 

しかし、恫喝と大金についに老婆が口を割り、数日後にお城は落ちました。戦争後、この老婆は住民たちに生きたまま石で生き埋めにされたそうです。岩屋城の北側、大野城の方の登山口には、「いしこづんばば」と呼ばれる、山を登るときは小石を持って行き、そこに石を積んでから登る、という風習がずっと残っていたそうです。今でも「いしこづんばば」は存在します。。。

 

 

結局、徹底抗戦された島津軍にも同等の死者と、2000を超える負傷者を出し、秀吉の九州征伐軍が九州入りしたため、立花山を攻めることなく薩摩へ帰っていきました。

 

 

■吉塚の地名の由来

島津軍に従軍していた筑後の武士に、星野吉兼・吉実という兄弟がいて、岩屋城の戦いの後、立花山を目指した島津軍にて、粕屋にある若杉山の近くに砦を構えていました。秀吉軍来福による島津軍の撤退に、岩屋城で父親を亡くした立花宗茂は反撃に出ます。島津軍のためにこれまた自ら犠牲となって砦に残り、これまた玉砕した星野兄弟。立花宗茂は2人に父親の姿を見たのでしょうか。当時、堅粕村と呼ばれた地で、2人を丁寧に弔います。そして2人のために村人たちが塚を作り、星野兄弟に共通する「吉」という字が当てられ、その地が「吉塚」となり、今でもそこには社があり地域住民により丁寧に管理されています。

 

 

■スポット6「崇福寺別院」

中には入れず、特にここがスポットと呼べるほどの地ではありませんが、「別院」と付いてます。本院は博多区千代にありますが、実はそこが初代・福岡藩の黒田長政、そして父親・如水の菩提寺です。なぜ太宰府に別院があるかと言うと、もともとこの地にあったものを黒田家が移したのです。

 

 

 

 

岩屋城の戦いで崇福寺も焼け落ち、そのままになっていました。1600年の関ケ原の戦いで筑前(福岡)52万石として入ってきた黒田家。最初は福岡市東区にある「名島神社」にあった名島城に入りますが、52万石を治めるには不似合いとして商人の町「博多」に近い福崎の地にお城を作り始めます。そのときに黒田如水が住んでいたのが太宰府天満宮です。

 

 

如水は、秀吉に天下を取らせた軍師であり、秀吉に最も恐れられていた人物ですが、太宰府天満宮での生活は、趣味の連歌をしょっちゅうやっていたようです。そのときに、息子夫婦を招いて開いた「連歌会」で歌ったのが下記の歌。

 

 

「松梅や末長かれとみどり立つ 山よりつづく里は福岡」

 

 

このとき始めて「福岡」という字が、この地に使われたと言われています。これが福岡城という名になり、この地を「福岡」にしたのです。そして如水は崇福寺を再建し、よっぽど気に入ったのでしょうか?博多区千代に移して菩提寺となったのですから、きっと何かあったのでしょう。

 

 

 

こうして環境フェス会場に戻ってきた一同、長い長い、しかし太宰府天満宮以外の埋もれた歴史を知るまちあるきを終えました。雨の中、参加いただいた皆さん、どうもありがとうございました。

 

 

歴史は点だけ知ると全くおもしろさを見せません。しかし人と人の繋がりがおもしろいように、歴史にも時空を超えて人と人との繋がりがあることを知れば、ハッキリと分かっていないところにロマンを感じ、おもしろく感じるものです。これを機会に、福岡の歴史に興味を持ってくれる人が出てくればいいぁ、と思う岩永でした。

 

 

写真は環境フェスを終了し、出店者たち全員で、ラジオ体操第1を改良した「まほろば体操」を踊って1日を終えました。この長い長いレポートを最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます(笑)

 

 

 

 

(学長 岩永 真一)

 

 


 

【今回の先生】

岩永 真一(福岡テンジン大学 学長)

 


 

【今回の教室】

太宰府市民の森

住所 : 太宰府市観世音寺